NBAルーキーシーズンながらも、ウィザーズのエースを任されるという異例の事態を成し遂げた八村塁。
彼がエースを務めた試合では、惜しくも勝利をもたらすことはできなかったものの、果敢に攻め厳しいマークにも負けないプレーを学べたと前向きに語っていました。
そんな八村塁は、中学からバスケットボールを始めたという経歴の持ち主。
彼のNBAドラフトインタビューでも話題に上がった恩師というのが、中学のバスケットボール部の先生(監督)のことでした。
その先生(監督)は坂本譲治先生です!
八村塁が恩師と語る坂本譲治先生(監督)とは一体どんな存在だったのか、詳しく調べてみました!
また、八村塁の中学時代のバスケットボールの成績はどうだったのか、その辺りも詳しくまとめたので最後までお楽しみください。
坂本譲治は八村塁の中学の監督!
八村塁の進学した富山市立奥田中学校の、バスケットボール部の先生(監督)は、坂本譲治先生(監督)です。
この坂本譲治先生(監督)は、とても柔軟でユニークな方法で八村塁をバスケットボールの虜にさせていきました。
八村塁のことを小学校の頃から知っていた坂本譲治先生(監督)は、部活にも入らずにゲームセンターに入り浸る八村塁の勧誘に動き出します。
そのための手段は問わないからと、八村塁と同じ小学校出身ですでにバスケ部員だったクラスメイトに、好きなものをご馳走してでも八村塁を練習に連れてくるよう頼んだのです。
その甲斐あって、なんとか八村塁をバスケットボール部へ入部させることに成功した坂本譲治先生(監督)。
それからというもの、坂本譲治先生はバスケットボール初心者の八村塁に対し、事あるごとに”NBA”という言葉を使い続けます。
まだポジショニングもろくにできない八村塁を見て、シュートフォームがNBA選手ぽかったからとの理由で「NBA選手になれるんじゃないか?」と発言したりしていました。
坂本譲治先生(監督)がNBAという言葉を使い続けた理由
これらにはきちんとした理由があり
- 八村塁にバスケットボールを楽しんでもらい、バスケットボールを辞めないように
- 初心者だった八村塁が上手くいかないことばかりの中、バスケットボールを嫌いにならないように
- 様々な競技経験を持つことから、バスケットボールに飽きてしまわないように
これらの可能性を少しでも下げるべく、坂本譲治先生(監督)が考えた策だったのです。
そのため、NBAの試合の映像を見せたり、NBAプレイヤーの名前を挙げてプレーを真似させたりしました。
しかしこの当時の坂本譲治先生(監督)は、まさか本当に八村塁がNBA選手になるとは思っていなかったそうです。
ですが、この夢のある将来を見据えた指導が、八村塁の高いモチベーションへ繋がったのです。
八村塁の中学のバスケ成績は?
八村塁の中学時代のバスケ成績も、初心者からバスケットボールを始めたとは思えないほどに輝かしいものでした。
八村塁が中学2年生の2011年9月には、日本バスケットボール協会主催のU-14の合宿に参加します。
選出メンバー約30人の中で上手い人はいたかという坂本譲治先生の質問に対し、八村塁は「自分は3番目くらいに上手かった」と答えたそうです。
そして中学3年生の時に、北信越代表として出場した第42回全国中学校バスケットボール大会。
八村塁は予選リーグ2試合と決勝トーナメント3試合のすべてに出場します。
決勝まで勝ち進み、決勝の相手は西福岡中学校(福岡県)。
前半は26-25で八村塁たち富山市立奥山田中学校が追いかける展開でしたが、西福岡中学校のエースの活躍により引き離され、惜しくも準優勝となりました。
●富山市立奥山田中学校55-72西福岡中学校〇
しかし、この大会で八村塁は富山市立奥山田中学校トップの20得点をあげ、大会ベスト5に選出されました。
まとめ
今回は、八村塁が恩師と呼ぶ坂本譲治先生(監督)について詳しく調べてみました。
中学ではスポーツをする気がなく、道を踏み外しそうになっていた八村塁を救った、坂本譲治先生の機転の良さには驚きました。
今のNBAプレイヤー八村塁があるのも、多少無理やりにでもバスケットボールと出会わせてくれた、坂本譲治先生のおかげだったのですね!
また、中学時代のバスケットボールの成績は大会準優勝で、八村塁はベスト5に選出されていました。
初心者から中学校でバスケットボールを始めて、3年生の大会でベスト5に選出されるとは、この頃から実力の高さがうかがい知れます。
ルーキーシーズンながら高い評価を受け、これからがますます楽しみな八村塁から目が離せません!